《花恋02》これは考察ではなく妄想だけど『花束みたいな恋をした』の麦と絹のキャラ設定についての謎を解いてみる。(もう観た人向け)

こちらはnoteに2021/02/23に投稿した記事のアーカイブです。
瀧波ユカリ 2021.02.23
誰でも

・これは公開中の映画『花束みたいな恋をした』についてのネタバレを含むテキストですので、ご理解の上で先にお進みください

・ここに書かれていることは「考察」ではなく「妄想」です。述べていることに根拠はないし、裏もとってないし、資料を読み込んだり映画を繰り返し鑑賞して確信を得たりもしていません

・これを読んでしまったことにより、あなた自身の「想像の余地」が制限されてしまう可能性があります。ご了承の上でお進みください

さて、

冒頭のシーンです。

2020年。二組のカップル。物語はそこから始まる。そして唐突に遡る。私たちの目線は出会った頃のふたりへと導かれます。本や映画などカルチャーに詳しいこと以外は、どこにでもいるごくふつうの若者であるふたり。ファミレスで涙を流した時も、付き合ってないのに一緒に住んでいる3ヶ月の間も、性格については変わらぬふたりであり続けました。

…で、2020年をもう一度思い出してみると。

他人のイヤホンの使い方について、自分の連れにそれぞれ持論を展開する麦と絹。

キャラが違っている。性格がちょっと変わったどころではない。知らない人に話しかけて「その音楽の聴き方はまちがっている」と指摘しようとする、かなりヤバな大人になっている。

なんでヤバになっちゃってるの?

ここから私の妄想は爆進して、ふたつの説が生まれました。このふたつは性質のちがうものですが、両立しうるものでもあります。そんなかんたんな前置きだけして、先に進みます。

説1:麦と絹の性格が激変しているのは、別れから再会までの間に何があったのかを想像させたいから

これは作り手側としての話になっちゃうんですけど、物語の始まりを「2020年に偶然に再会した男女が過去に何があったかを振り返る」っていう形にするなら、何もあんなに性格を激変させる必要なんてないんですよね。ちょっと大人になったふたりがお互いの姿を見つけて…くらいの感じでいいし、そのほうが恋愛映画っぽさで言えば自然。

なのに、あそこまでエグみの強いふたりを2020年に持ってきたのは、別れてから再会までの間に何かがあったってことを示唆したいからだと思うんですよ。

時系列をちゃんと覚えていないのではっきりしませんが、映画に描かれていないその空白の期間って、たぶん数ヶ月から1年とか、それくらいの間ですよね。

何があった?

というわけで、ここからは自分の立てた説に従って、妄想していきたいと思います。そしてこの妄想は、自分の経験だったりこれまで聞かされてきた周囲の体験談だったりを種にして構成していきます。

最初からすりあわせをする必要もなく趣味でばっちりつながって愛し合ったタイプのカップルが別れたあと、何が起きるか。大きくわけるとふたつ。

・しばらく恋愛はいいや

・新しい人を探そう

この映画の場合は、2020年のふたりがデート中だったことを考えると、どうやらふたりは「新しい人を探そう」だったのではないか。

そう、フリーになって、新たな出会いを求めたわけですね。たぶん今ならマッチングアプリとか使ったりして。

で、どうなったというと、たぶんバチクソに失望するはめになったんじゃないかと思うんですよ。

サブカル的にそこまでマニアックではないと言うても、麦と絹は同世代の大多数の男女と比べたら、映画や本や小説などにかなり詳しくて語れてしまう人たちです。

なので、マッチングアプリで「趣味は読書です」なんて書いてる相手とマッチして会ったりするわけですね。

そして、経験するわけです。終電を逃したあの夜に同席したあのカップルみたいな相手との、噛み合わなさを。どんな本読んでますか?映画は何が好きですか?それだけでわかってしまうわけです。この人とは話が盛り上がらなさそうだということを。そして、その質問で相手を値踏みしてしまうめんどうくさい自分がいることを。

そこで「じゃあ、相手に趣味性を求めるのはやめよう。他の要素でつながって恋に落ちることだってできる。そっちの方向も取り入れてみよう」というふうになれれば、それはもしかしたら成長と言えるのかもしれません。

でも、麦と絹はそうはならなかった。恐らくは、たまたま別の方向性を見つけてしまった。その別の方向性とは、

「自分の趣味性の高さに価値を見出して認めてくれる相手」に全力で寄りかかる。

というやつです。

出会って話して失望して…を数ターン繰り返したあと、麦も絹も「うまくいかない。自分はダメだな」と卑屈になるのではなく、むしろ少し傲慢になっていった。

「ま、自分のようなセンスの持ち主と互角に話せる相手なんてそういないよな」

その結果、自分の趣味性を隠すよりもむしろ開陳する方向にふたりは変わっていった。マッチングアプリのプロフィール欄を好きな作品名を埋め尽くし、「オラかかってこいよ」と臨戦態勢で望んだ。

そして、麦にも絹にもそれぞれ現れたのです。

「サブカルさしすせそ」を言ってくれる相手が!!!

さすがサブカル詳しいね!

知らなかった!サブカルって深いね!

すごい!サブカル博士!

センスいい!サブカルっておしゃれだね!

そうなんだ〜!サブカルって面白い!(適当です)

その相手こそが、冒頭のシーンでそれぞれ一緒にいた相手ではないかと思います。出会ってしまったことで、麦も絹もなんなら「こっちのほうが気持ちいい!」と思ってしまった。そしてすぐに増長して、他人のイヤホンの付け方にケチをつけるようなキャラになってしまった、というわけなのです。…というのはもちろん、私の妄想ですが。

「若い頃の数年間を一緒に過ごし一度は深くわかりあった相手」と別れたあとって、どうなるの?短い期間で麦と絹はあんなふうになっちゃうってことは、何があったの?そんなことを想像する余地を残してくれたのではないかなって、私は思うんですよね。

でもそれは、あえて余地を残したというより、結果的にそうなっちゃったのでは…?はい、これが説2につながっていきます。

説2:ほんとうは2020年の麦と絹のドラマを作るつもりだった

いや、こんな話はね、そうだとしてもそうじゃなくても、たぶんいろんなものを読んだらきっとどっかに書いてたりするものなんだろうと思うのですが、これは妄想なので。妄想として進めます。引き続き妄想です。

ここでもう一度、2020年の麦と絹のキャラを振り返ってみましょう。あのアクの強さ、セリフまわし。あれ、なんだか既視感あるぞ。そうだ、坂元裕二作品によく出てくる、みんなが大好きなザ・坂元裕二作品キャラだ!

ということはですよ。脚本家の頭の中でそもそも最初に立ち上がったのは、過去の5年間の話ではなく、

「長年の同棲が破綻し、新しい出会いを探して東京でもがくアラサー男女」

の話だったんじゃないでしょうか?

もう、若い頃に経験した「花束」みたいに特別な恋愛なんてできやしないってわかってる。だけどどうしたらいいかわからないし、今とりあえず付き合っている相手でもいいかなって気もしてる。そんな時に、花束時代をともに経験したかつての恋人と再会する……。

それが、最初に立ち上がったストーリー。

これはもう、連ドラですね。火曜とか木曜とかの夜10時ですね。Twitter民がセリフまわしの妙に大歓喜する、テンポがよくて明るくてでも皮肉が効いているやつ!

このストーリーを確かなものにするために必要なものはなにか。当然、過去の「花束」みたいな恋がどんなものだったかというバックグラウンド設定です。

大学卒業したての若い男女が同棲する必然性はなにか。年齢や時代背景などを考えると、結婚を前提云々よりも、これ以上ないくらい深く楽しく趣味の世界でつながる相手と出会って、一緒に住むということが夢のように楽しいものであれば、同棲という選択肢はとても自然なものとなる。この「必然性」の観点から、今回映画の中に散りばめられた固有名詞が選択されていく。

そのような形で同棲を始めたふたりが、別れる理由ってなんだろう?経済面?趣味と仕事の兼ね合い?ジェンダー感の不一致?それが物語であろうと現実であろうと、往々にして別れる理由はひとつではない。この作品においてはどの理由を選ぶのがもっともふさわしいだろう?

…そう考えていくうちに、坂元さんは思ったんじゃないでしょうか。「こっちを作りたい」と。それも、私が前回書いた、観客に「別れた理由」を想像させ、無意識のうちに選択させるという、だれもやったことのない新しい恋愛映画(という名のトリック映画)を。

出会い、別れ、そしてそれぞれの模索の期間があり、再会、それからの数年間。この一連のストーリーはすでにできあがっていて、私達が観たのは実はその一部であり、描かれていないところは想像可能であり、そしてこの先のふたりの話はもしかしたら別の形…タイトルやキャラクターは別のものとして…をとったとしても、いつか世にあらわれるのではないか。そんな楽しい妄想をしたところで、おわります。書きっ放しの乱文へのお付き合いに感謝。

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