《花恋05》オダジョーの謎を解く。 『花束みたいな恋をした』 (もう観た人向け)(追記あり)

こちらはnoteに2021/02/27に投稿した記事のアーカイブです。
瀧波ユカリ 2021.02.27
誰でも

毎度のことですがネタバレあり、もう観た人向けです。でも観てない人も、ネタバレ気にしないならぜひどうぞ。

さて。

「絹ちゃんはオダジョーと浮気したのか」問題についてやはり書かねばならぬと思い、深夜にキーボードを叩いております。

私から見て、オダジョー演じる「加持」という男は他のキャラと比べると非常に異質な存在に思えます。

一言でいうと、鑑賞者が感じることのできるこの役のアイデンティティは「オダジョー」のみなのです。(そういえば彼について話す時にみんな「加持」ではなく「オダジョー」と言いますね)

どういうことかは、この先じっくりとあちこちをほぐしながら説明していきます。

行為だけ抜き出すとぜんぜんチャラくない加持

絹と菜那がちょうどマンネリおセッセにおけるお道具の可能性の話をしている時にヌル〜ッと登場する加持。

イベントでモデルたちに囲まれてちょっとふざけながら写真撮影に応じている加持。

打ち上げの席で自分の膝で眠ってしまったことにうろたえる絹に「ラーメンでも行く?」と話しかける加持。

ライブハウスで絹に「恋愛は生もの、賞味期限がある」「ひとりの淋しさよりふたりの淋しさのほうがより淋しいっていうし」「別れて別の男探せばいいんじゃない?」と語る加持。

…こうして行為だけ抜き出すと、チャラさを特に感じないんですよね。もう少し言うと、チャラく見せる機会がちゃんとあるのに、それをしていない。

たとえばマンネリおセッセお道具トークに「えっえっなになに?」って絡ませることもできるし、

写真撮影時にモデルの肩を抱き寄せたり、みんなの目を盗んで絹にアイコンタクトを送らせることもできるし、

膝で眠る絹の髪を指で梳いたり、肩に手をのせたりすることもできる。てか社長ってポジションなんだからあの場でちょっとそういう何かをしてもみんなが見て見ぬふりをするだろうし、彼の「持っているものの大きさ」を証明するにはもってこいのシーンのはず。(権力者ってそういうことするの好きだしね!)

「ラーメン行く?」のあとに、絹の手をとって「酔ってるから」とか言いつつ恋人繋ぎ…なんてこともできる。

ライブハウスでのちょっといいこと言ってる風の語りも、もう少し踏み込んで(というか、よくおっさんが言う感じの)「絹ちゃんにはもっと大人の男が似合うと思うよ」「絹ちゃんのこと近くで見ている人、いるんだけどな」とか言わせることだってできる。

できるのに、していない。それってどういうことか?

作り手が意図的に、チャラさを証明するようなアクションを加持にさせることを避けている。

私はそう考えます。

何も付与されていない男・加持

「いや、全然チャラく見えてたよ?いかにも絹をものにしそうな男だった」

ここまで読んでもそう思う人は、頭の中で加持のガワをオダジョーから別の俳優に入れ替えてみてください。たとえば…髪型が似ている人にしようかな。又吉直樹さんにしてみてください。

写真撮影に挑む又吉さん。絹に膝を貸す又吉さん。ライブハウスで恋愛論を展開する又吉さん。

髪型つながりで、片桐仁さんでもいいですね。「ラーメン行く?」という片桐さん。あ、ラーメンつながりだ。

いや、ふざけてるわけじゃないですよ!でも、役者が変わるだけで、すごく印象変わっちゃう。チャラさが消し飛ぶ。そう思いませんか?

つまり私たちが持っている「加持はチャラい」というイメージは加持の行動によるものではなく、外見(オダジョー)だったり、絹が麦にした説明(「仕事を遊びに、遊びを仕事に」「毎日テキーラ飲んでるしね」など)によって植え付けられたものだってことです。

じゃあ「本当の加持」はどういう人なのか?それは、脚本家の頭の中にはあるのかもしれません。でも、私たちにはひとつも示されません。写真撮影で業界的なそれっぽいリアクションをし、絹に膝を貸す以上のことはせず、ライブハウスでの語りもどこかで借りてきたような、深みや含みのないセリフです。

私たちが加持をどういう人か考える時、与えられているものは「オダジョー」という外見の要素だけ。

それが何を意味するか?

私は「加持のほうに答えはない」というメタ・メッセージであると結論付けました。

絹を疑いたくなる感情と付き合うのが我々のミッション

「あんなチャラい社長だったら絹なんてイチコロなはず」…そう思う根拠は役者の外見だけ。もう少し言うと、外見に加えて、私たちが持っている「オダギリジョーが演じるタイプのキャラクター」というイメージ。

ここに気付かせるために、加持は空白の存在として設定されました。

加持と絹がどうなったかのヒントは、加持の中にはない。ないのです。ならば私たちは、絹のほうをよく見なければならない。

ではここから絹が加持をどう思っていたか、加持とどういった行動をともにしたのかを推測できる描写を洗い出していきましょう。

・絹が膝枕から目覚めた時に居合わせた男性社員が「社長に絡んで、私どうすか私どうすかって言いながら膝で寝ちゃったんだよ」と言った

・「ラーメン行く?」から電車までの間の描かれていない時と、電車で加持とスマホでやりとりしていたら近くにいた麦に気付くシーン

・ライブハウスで加持と恋愛について話す絹

・誰とかはわからないが絹が「さわやか」を食べたこと

・タピオカを飲みながら「一回くらいは浮気したことあったでしょ」と麦に聞き、ないと言われたら意味ありげに「ふーん」と言う絹

…まず、膝枕。この「私どうすか」について私は個人的にはちょっと懐疑的です。というのも、ああやって爆睡している女の子が起きた時に「覚えてないかもしれないけど、めっちゃキス魔になってたよ」とか面白おかしく言ったりする奴ってよくいるから!!!(実!体!験!)実際「私どうすか」的なことを絹は言ったのかもしれないけど、迫っちゃうくらいの明確な好意をこの時点で絹が持っていたようにはなんだか思えない。それを言っちゃうとしたら、絹は麦とのプロポーズ事件のこともあり自分に自信がなくて、そういう意味での「私どうすか」かな、と思います。売り込み的なほうではなく、承認を求めるような「(こんな)私(って)どうすか」。若い頃あるある。かわいいぞ、絹。

ラーメンについては、行ったとしても行かなかったとしてもどっちでもよくて。ラーメンブログをつけていた絹がそれを言われたことによって、今まで漠然としていた加持への思いがちょっと「好」寄りになった、ということなのかと。だから電車のあとのやりとりのあとに麦を見つけた時は、ちょっと気まずかったんじゃないでしょうか。(ちなみにこのシーンはシナリオブックには「笑顔で返すが、何か気まずい」と書かれています)

ライブハウスのシーンは、加持のあんまり中身のないセリフに対して絹はちょっとじれったく思っていたんじゃないかって気がします。あの会話は、加持の高感度が絹の中でさらにあがるほどのものではなかったように見えました。

「さわやか」は加持と行った、と考えるのが自然かなと思います。だって他に一緒に行くような人がだれも出てこないし。しかしこれも、ヒントがなさすぎますね。

タピオカの探りを入れるシーンは、ここに考える要素を置いておきますのでもう本当にご自由に解釈してください!っていうアテンションじゃないかなと。絹が浮気をしていてもしてなくても、どちらもああいった言い方をする(もう別れているので気軽に試し行動的は発言をする)可能性って同じくらいある気がするから。でも私だったら…と考えると、実際浮気をしたことがあったとして、ふたりで映画を観ながらタピオカをすすってるほのぼのした時間に、わざわざ自分の浮気をほのめかすようなことはしないなあ。ほのめかすこと自体が何か自分にメリットがあるような別の機会にとっておくなあ。私だったらだけどね!

で、結局どっちだったの?となると、答えが出ないんですよね。ほんとうに決め手がなくて。こうやってひとつひとつ考えたのに決め手がないってことになると、私としては「そのまま置いておく」ことしかできない。

でもこの「そのまま置いておく」をするのって、すごく難しい。だって「こうこう、こうだから、絹は加持と浮気していた!」って結論付けられたほうが、よっぽど楽だもの。

もちろん答えは人によってさまざまで、浮気をした派もいれば、途中までだった派、そして何もなかった派などに分かれると思います。ここもやはり、どう捉えるかは鑑賞者に委ねられているというわけです。

でも私はこのことについてはあえて、「そのまま置いておく」ことにしようと思います。だって自分の人生においても、本当はどうだったのかがわからなくて「そのまま置いておく」しかないことがいくつかあるから。映画の中にも、そういうものがあってもいい。

こうしてあれこれ考えて、絹はやっぱり浮気したのでは…していたらなんだかいやだなあ…なんて、まるで友達みたいに考えたりする。そういう自分の気持ちの惑いに付き合うこと自体が、この絹と加持のミステリーが作られた理由であり、私たちに課せられたミッションなのではないかと思ったりするのです。というのを、ひとつの考え方として参考にしていただけましたら幸いです。今回も推敲なし書きっ放しですが、おしまい。

《追記》さっき電子レンジでごはんを温めている時にふいにこのことに気がついて、「うわーーーーーーーーっ!!!!!」っとなって大急ぎで書いています。これは妄想であり、考察です。定かではないけど、ひとつの考え方として記します。

この映画は、大事なことはすべて言語化されている。冒頭で絹と麦がテーマを言う「恋愛は、ひとりに一個ずつ」。タイトルの「花束」では、若い頃に経験するひとりに一個の恋とはどんなものかが示されている。そして、加持が何者なのかは、加持が登場する際に交わされる会話で示されている。この映画の中ではなんだかちょっと浮いている、マンネリおセッセお道具トークである。

「道具使うとかさ」そう、加持はこの映画における「道具」。アイデンティティはその容貌以外に、何も付与されていない存在。三年付き合ってるカップルがこれからどうなるかという時に差し込まれる、鑑賞者の気分を上げるための役割を持った道具、なのであったのかもしれない。

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