「おっぱい」と言えない女の子の話 #NoBagForMe(noteアーカイブ)
あまり恥ずかしがらない子どもだった。
人前で発表したり、音楽の時間に歌ったりする時に、躊躇したり緊張したりした記憶はあまりない。小中高と、シャイとかナーバスとかセンシティブとか(そもそもそれらの概念は昭和の田舎には存在しないようなものだったが)、そういう性質の子どもではなかった。
でも、そんな私にもすごく「恥ずかしい」ものがあった。それは特定の言葉を口にすることだった。「おっぱい」。これを言わなければならないシチュエーションを恐れていた。たとえば教科書の音読。国語や保健体育の教科書にこの言葉が載っているのを見つけると、その箇所のところで音読の番がまわってきたらどうしようと不安になり、授業中はそればかり考えていた。
赤ちゃんがいる場所も危険だった。大人は平気な顔で「あら、泣いてる。おっぱいがほしいのかな」「おっぱいの時間だね」なんて言う。さらに恐ろしいのは、「おしゃぶり」のことを「ちくび」と言う人だ。「そこのちくび取って」なんて言われて、どうして平気な顔でいられようか。
恥ずかしいを通り越してもはや「死」に近いのが、自分の胸部を「おっぱい」と呼ばれることだった。銭湯や温泉などに行った時に、大人の真似をしてタオルで胸を隠していると「あらかわいい、おっぱい隠してる」と言ってくるようなおばさんが世の中に存在するのだ。大人にしてみたら他愛のないからかい文句なのかもしれないが、私にとっては「まだおっぱいと呼べるようなものではない、そのうちおっぱいになるであろう部位を、おっぱいであると自分では信じて、おっぱいとして扱って隠している(笑)」と言われるに等しかった。
「おっぱい」という言葉には、母親的な意味と性的な意味の両方が含まれている。それが「おっぱい」を恥ずかしく感じる理由であると思う。私に限らず、ほかの多くの子どもたちもそうだったのではないか。
恥ずかしさのピークは小学校高学年くらいだったように思う。中学生になると下ネタワードが氾濫して、ちょっと言いづらい言葉を勇気を出して言う!ってだけで何時間もゲラゲラ笑うみたいな光景が日常だった。だから「私はおっぱいって言うことは別に恥ずかしくないですよ!」って顔をしたり、まわりのノリに合わせておくことくらいはできるようになった。でも、できる限り自分の意思で「おっぱい」は言いたくないとは思っていた。幸い「胸」という代替ワードがあったので、ほとんどはそれで切り抜けられた。
大学生になっても、まだ私は「おっぱい」を避けていた。体が大人になっても、性交渉が日常になっても、「恥ずかしい」という感覚はなくならなかった。よっぽど不自然にならない限りは「胸」を使っていたので苦労はなかったが、ある時危機は訪れた。「おっぱい星人」という言葉(女性の胸が大好きな男性の総称)が流行りだしたのだ。
どうしてだ。昔はみんな、あんなに恥ずかしがっていたはずなのに、どうしてそんなカジュアルに「おっぱい星人」などと言えてしまうのだ。もう中高生のようなてらいもない。店員さんが「いらっしゃいませ」と言うがごときなめらかさでみんな「おっぱい星人」と言っている。
当時の私は開けっぴろげな女傑キャラだった。そんな私がまさか「おっぱい星人」と言いたくないなんて、だれも思うはずもない。だから、いつでも「おっぱい星人」くらい言えますよって顔をし続けたし、恐らくだれも私の恥の感情を悟りはしなかっただろう。
それから今に至るまで、「おっぱい」を一瞬の躊躇もなく発語できたことはたぶん、一度もない。子供を産んで、授乳のために「おっぱい」をめちゃくちゃ酷使している時も「おっぱい」と言う直前の0.1秒間、ちょっとしたひっかかりを感じていた。この文章は文字だから平気で打てるけれども、音読をしなければいけない文章だったら極力別の言葉に置き換えて書くだろう。
今は、子どもの時と同じくらい恥ずかしいわけではない。恥ずかしかった期間がけっこう長かったから、躊躇のくせが抜けきらないのだろうと思う。でも、まったく恥ずかしくなくなった!と言えるほどではないというのが正直なところだ。
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どうして今このことを書いているのかというと、最近NoBagForMeという活動をしていて「恥ずかしさ」について考える機会が増えたからだ。
NoBagForMeは、女性たちが自分自身の身体について気がねなく話せる社会を目指すプロジェクト。まず第一歩として、店頭で買いやすい生理用品のパッケージを作る企画が進行中だ。
プロジェクトがスタートしてから、よく見聞きしたのはこの言葉だ。
「生理は恥ずかしいことじゃない」。
このシンプルな一文に対して、
「そうだ。生理は恥ずかしくない!」
と思う自分と、
「うーん、やっぱり恥ずかしいよ」
と思う自分がいることに、私は気がついた。
この一文の中にはふたつの「恥」があるのだ。社会にとっての「恥」と、個人にとっての「恥」。押し付けられる「恥」の烙印と、内から生まれる「恥」の感情。
そのふたつの「恥」を分けずに「生理は恥ずかしいことじゃない」と言ってしまうことは、感情としての「恥」の否定につながってしまう。
私が大人になっても「おっぱい」と言うのを恥ずかしいと思う感情は、だれにも否定されたくない。「おっぱいのどこが恥ずかしいの?恥ずかしいと思うほうが恥ずかしいよ!」なんて言われたら、傷つく。
「生理は恥ずかしいことではない」。もしこのシンプルな言葉を使う時には、前後で以下のような説明をしっかりとするべきなのかもしれない。
「生理のことを恥ずかしいものであると考える社会の風潮は、今から変えていくべきである。しかし、生理について話すことや生理中であることを恥ずかしいと思う感性は、尊重されるべきである」
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「それは恥ずかしいことだから隠しなさい」という抑圧の空気を変えていくことと、「恥ずかしいと感じるのはおかしなことではないし、隠してもいい」と伝え尊重すること。その両方を、時間をかけて丁寧に進めていくことがきっと大事なんだと思う。
「おっぱい」と言えなくて、言ったら恥ずかしくて死ぬんじゃないかと思っていたころの自分を忘れずにいたい。
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