《花恋01》もう観た人向け『花束みたいな恋をした』の構造についての話
・これから綴るのは『花束みたいな恋をした』の構造についての話です
・すでに映画を観た人に向けて書くので、ネタバレありと理解の上でお読みください
・自他の感想が自分の中でごっちゃにならないよう、他の人のレビューやツイートなどはひとつも読んでいないので、これから書くことは「そのことについてはもう別の人が書いてた」「みんなそれ知ってる」「なんなら最初からみんな知ってる」な話かもしれませんということを前置きした上で書きます
さて
この映画がどんな映画かを私なりに一言で言うと、
作り手が観客に明確な事実として示しているのは「同棲が破綻した」という1点のみで、「なぜ破綻したか」については「描かれていない部分」を観客それぞれが無意識のうちに想像して組み立てることができるように作られているが、そういった構造になっていることは隠されている映画
です。
どうしてこういう見立てになったのかというと、「なぜ別れたのか」もしくは「どうすれば別れずにすんだのか」という見解が、人によって本当に多種多様、まちまちだったから。(これは私がclubhouseで話した人たちーーたぶん10人強くらいかな?ーーが観測範囲)
たとえば、麦が働いていた会社ひとつとっても、見解がわかれています。
・ブラック企業だった
・さほどブラックではない
断片的に「ブラックかな?」と思える描写は出てきます。でも決定的な、もう完全に会社側が真っ黒!!って思えるような、わかりやすい描写は出てこない。
また、麦のイラストについては
・毎日描いてるような描写がなかったから、さほど熱心ではなかったのだろう
・ブラック企業で疲弊して描けなくなったのだろう
このように推測が分かれます。たしかに、寝食も忘れて熱心にイラストに打ち込む描写は出てきません。しかし麦のイラストは(私から見れば)一定の水準をこえたセンスあるレベルのものであり、その陰には打ち込み続けた時間があったのではないかと思います。
絹の仕事観については
・資格も取りつつ好きなことを仕事にするチャレンジもしていて、しっかりしている
・麦とひきかえ、プレッシャーもなくふらふらしていて社会人として未熟だ
のように意見が分かれます。こちらもたしかに、就活が終わった後は歯を食いしばりながら努力する絹の描写はこれといって見られません。でも何の努力もなく社会人生活が成立するようにも思えません。
絹とオダジョーについては
・できてた
・最後までは行ってない
・えっ何かあったの?
などに分かれます。「ラーメン」や「さわやか」や「タピオカの時の会話」などをどうとらえているかによってそれぞれの見方が変わっています。
そして別れに至ったことについては
・もともと仕事にも恋愛にも好きなものにも真剣に向き合うことができない人たちだった
・麦はイラストをがんばるべきだった
・絹が性悪だった
・努力不足、成長不足
・もっと絹がサポートしてあげるべきだった
などなど、どちらかというと「しかたなかった」より「こうすべきだった」的な感想が多かったです。
どうしてこんなに感想や見解が分かれるのかというと、「分かれるように意図的に作り込まれているから」なのだと思います。
決定的な描写を避け、ふたりがスクリーンに映らないところで何をしていたのかを観客自身が想像するように誘導する。
ふたりどちらの視点にも寄らず、もしくはどちらの視点もほのめかせ、どちら側に立って出来事を眺めるかを観客に委ねる。
加えて、善悪とか、正しい正しくないとか、強い弱いとか、そういったジャッジを作り手側が提示することを徹底して避ける。
そして、この映画がそのように作られていることを気付かせない。
恋愛映画というデコレーションの中に隠されていたのは、ストーリーを観客自身が決める(しかもそうなってることに観客は気付かない)という仕掛けをこめたトリック映画でした。
この映画において、観客の中に立ち上がったストーリーは観客自身を映す「鏡」であり、ストーリーを語り感想を述べる時、それはすなわち「自己紹介」となるのです。
…というわけで、あまりにもすごすぎる映画なので近々2度目に行こうと思っています。おわり。
《追記》
タイトルの「花束」の意味について、「根がなく、あとは枯れるしかないもの」というような解釈を耳にしたけれど、私はこう思っています。
「花束」と聞いた時に、みんな思い浮かべるものはそれぞれちがっている。
花束の大きさ、花の種類、包装のセンス。同じものはふたつとない。
この映画のストーリーもそうで、観た人ひとりひとりがちがうものを作り上げる。
ということではないかな。
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